「一個人」『生誕100年・黒澤明全30作品完全鑑賞』 Cinema Kingdom Blog

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映画、国内&海外ソフト、ホームシアター機器、旅行、写真、アニメ「あの花」を肴に綴る徒然雑記

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「一個人」『生誕100年・黒澤明全30作品完全鑑賞』

昨日2月26日発売の月刊グラフ誌、
「一個人」 ( いっこじん ) 2010年4月号
「生誕100年・黒澤明全30作品完全鑑賞」
と銘打った、黒澤明監督の「保存版特集」が
掲載されています。



これが素晴らしい内容で、定価680円という安さ
もあって、1冊は保存用にと2冊買いました。(苦笑)




以下の解説は『一個人|「一個人」特集のご案内|今月』
ページから転載したものです。

■黒澤明 絵コンテの世界


脚本を書き終えた段階で、黒澤明の脳内イメージは完璧だった。
それを証明するのが 数多く残された絵コンテだ。
衣裳や小道 具など緻密に描かれた黒澤の絵コンテを解析!

■「七人の侍」を読み解く


日本映画史上、ナンバーワンとも称される「七人の侍」。
黒澤明が3時間27分の大作にかけた意欲と壮絶無比な
撮影現場の舞台裏に迫る!

■黒澤明全30作品完全鑑賞


鮮烈なデビュー作『姿三四郎』で映画界に彗星のごとく登場し、
ベネチア映画祭グランプリに輝いた『羅生門』以降は、
遺作『ま あだだよ』まで、つねに世界の注目を集める作品を
創り続けた巨匠・黒澤明。驚異的な創造力によってつくられた
全30作を、記 録係として作品誕生の現場に関わった野上照代
さんの貴重な証言とともに観賞する。

■黒澤作品のポスター変遷図鑑


黒澤明監督全30作品は、「明治の明るさ」を描いた第1期から
カラー時代の第4期までに分けられ、ポスターは各時期の特徴が
色濃く映し出されている。
黒澤作品の変遷をポスターとともに見ていく。

■娘・黒澤和子さんが語る 黒澤明 愛の哲学


“頑固一徹”“孤高の独裁者”。
世間が持つそんなイメージの影には愛情深く、
純真で心優しい素顔が隠れていた―。娘として、
黒澤組の一員として、公私に渡って父親を支えた
黒澤和子さんが黒澤監督の素顔を明かす。

■「クロサワ」の影響を受けた世界の監督たち


『七人の侍』『用心棒』…世界の大ヒット映画は
「このシーン」からヒントを得て誕生した




■出演者が語る黒澤明の実像


撮影では妥協を許さない厳しさから「天皇」とも
称された黒澤だが、最も身近にいた出演者が実際に
現場で見たのは、愛情と優 しさにあふれた、
風評とはまったく違う黒澤明の姿だった。




■黒澤監督のロケ地取材




デビュー作『姿三四郎』を皮切りに数多の名作を生んだ
富士山麓エリア。何ものにもさえぎられない広大な平原、
急勾配の坂道 、変わりやすい天候など大自然が生み出す
ロケーションは後に別荘を構えるほど黒澤監督の心を魅了した。

■黒澤明が愛した宿


『姿三四郎』の製作拠点とした信州の木造旅館、
『影武者』『乱』の脚本を執筆した中伊豆の古湯、
美食を堪能した秩父の老舗、 晩年の活動を支えた京町家など、
黒澤明監督が滞在し、数々の作品を生み出した名旅館をご紹介。
そこにはゆかりの部屋や 品々、心癒した風景、温泉などが
今も変わらずに残っていた。



月刊誌でありますから本屋やコンビニで
入手出来るのは、たった一ヶ月間だけであります。
確かにネット等でバックナンバーを入手する手も
無くはないでしょうが、それにしても出版数には
限りがあるでしょうし、内容からして早々に売り切れ
るのは必至だと思われますので、黒澤ファンなら
いますぐ本屋に行くか、ネットでご注文を!


一個人 ( いっこじん ) 2010年 04月号 [雑誌]一個人 ( いっこじん ) 2010年 04月号 [雑誌]
(2010/02/26)
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[ 2010/02/27 03:17 ] 映画 | TB(0) | CM(8)
劇場では、20作品くらい観てます。DVDでは、全作品あります。そこで、聞きたいのですが『姿三四郎』は短縮版しか最早、観られないのでしょうか?『夢』は、ハリウッドプライス版を持ってるのですが、クレジットが英語版なんだけど、日本語版はないのでしょうか?もし、黒澤明監督がまだ存命中だとして、現在のデジタル化CG化された映画界でどのような作品を製作してますでしょうか?
[ 2010/03/01 11:04 ] [ 編集 ]
確かにマニアックな内容ですね。(苦笑)

> 『姿三四郎』は短縮版しか最早、観られないのでしょうか?

91分の最長版は赤ジャケのDVD豪華版の特典映像に
収録されていますが、おそらく97分のノーカット版
の事をおっしゃっているのでしょうね。
リバイバル公開があった昭和19年以来、行方不明なのですから
おそらくもう誰も観ることは出来ないのでしょうね。
なんせ戦争中でしたし、その後、日本の主要な都市は
すべて焼け野原になった訳ですし…。

何度か映画化されている「姿三四郎」では、
「姿三四郎」と「續 姿三四郎」の内容を
黒澤さん自身が再脚色して1965年に公開された
加山雄三主演版の「姿三四郎」も良かったです。
こちらはDVD未発売のようですが、
日本映画専門チャンネルで何度か放送され、
録画して持っています。
これを観て完全版を想像するくらいしか出来ませんね。

> 『夢』は

どうも、ソフト化されている「夢」は
僕も持っているDVDもLDもすべて英語クレジット版のようですね。
BSで放送された版はどうだったかな???
まあ、出資がアメリカのワーナーですから
仕方ないのかもしれませんが…。

> もし、黒澤明監督がまだ存命中だとして、現在のデジタル化CG化された映画界でどのような作品を製作してますでしょうか?

これは僕も
もし今、黒澤さんがお元気であればお訊きしたいですね。(笑)
僕ごときが答えられる筋合いでもありませんし…。
ただ、時代劇を撮るのにCG合成は便利なツールですよね。
セットの製作費をかなり節約出来るでしょうし、
CGモブを使って派手な合戦シーンなども作れたでしょう。
また、カラー作品で監督がずっとこだわっていらした
色合いや色調に関してもデジタルなら後から簡単に
調節出来ますしね。

実は、昨日もHV放送版の「赤ひげ」を観たんですが
あれを越える完成度の作品を生み出せる資金と時間を
当時も現在も、日本映画界が持っているとは思えません。
やはり、海外の資金を得るなり、
自ら海外で仕事をされる以外に、黒澤さんの才能を
活かせる道はなかったのだろうと思います。
その為にはやはり最初は比較的低予算の娯楽作品を
作って、なおかつそれを世界中でヒットさせ、
海外(というかハリウッドですが)で仕事が出来る
確固たる基盤を作るべきでした。

黒澤さんは「赤ひげ」を完成させて以降、
世界のクロサワとしての自負と映画芸術への盲信から
TVの隆盛やファンが本当に観たいと思っているのは
どんな作品なのか?という、世間の空気や期待を
読めなくなってしまった、という気がします。
ひと言で云えば、世事に疎すぎたと云いますか・・・。
「乱」以降、プライベートフィルムばかり作り、
興行的に残念な結果が続いたのもそれが原因でしょう。

やはり、どう考えても「暴走機関車」だけは
白黒になろうが、気に入らない脚本だろうが、
石に齧り付いても完成させるべきだったと思いますね。
監督の自尊心がそうはさせませんでしたが、
あれをやるかやらないかという選択が
監督人生で一番大きな転機だったことは、後年、
黒澤さん自身も身に染みて感じていらしたのではないか?
と、勝手な想像をしてしまいます。

まあ、今更何を考えても詮無いですが・・・。

[ 2010/03/02 07:18 ] [ 編集 ]
どうもご丁寧に有難うございます。あの2つの事件さえなかったら、『赤ひげ』以降は海外などで活躍されたんでしょうか?『どですかでん』以降が幻のごとく、海外作品が多くなってだのでしょうか?
[ 2010/03/02 12:01 ] [ 編集 ]
仕方ありませんが、
もし黒澤さんの映画作りの内情に詳しい方で
なおかつ、ハリウッドの映画製作の実情にも詳しい
英語が堪能な日本人助手かプロデューサー
(日本語が堪能な外国人でもいいのですが)でも居れば、
黒澤さんの晩年の作品はかなり違ったものになっていた
のではないかと想像しちゃいますね。
ハリウッドのスタッフや俳優たちにも黒澤さんを
尊敬していた人はたくさんいらしたと思いますから
「暴走機関車」をあちらで制作、公開していれば
次回作の資金集めも含めて、アメリカでの映画作りの道が
かなり開けていたはずだと思うんですよねぇ・・・。

経歴だけ見れば、当時の黒澤プロの海外折衝役だった
青柳哲郎プロデューサーは適任に思えますが、
彼は直接、黒澤さんの映画製作の現場で働いたことは
なかったはずです。

まあ、時代が今とは違いますから、そんな人を
見付けるのはなかなか難しかったでしょうけどね。
それに監督ご自身があまりにもイノセント過ぎましたし・・・。
でももしそんな人が監督の近くにいてくれていたら
油の乗りきった時期に、主に資金面から映画が撮れずに
何年も悶々とすることなどなかったのではないかとも思います。

まあ、この「東京オリンピッック」から
「暴走機関車」、「トラ・トラ・トラ!」前後の事は
記事にしました「大系 黒澤明 第2巻」に詳しいので
お買い求めになってお読みになられたらいかがでしょうか。

http://gank2o.blog5.fc2.com/blog-entry-808.html

でも、当時の監督のインタビュー記事などを読んでいますと
こっちが今更勝手な想像でアレコレ云っても、やはり
なるようにしかならなかっただろうなと思う部分もありますw。
つまり、監督ご自身があのままであれば、
周りにどんな人が現れても歴史は変わらなかったであろう
という事です。

そのくらい絶頂期の黒澤さんは、
有り余る世界的な賞賛の声に裏打ちされて、
自分の映画作りに確固たる自信と主張をお持ちだった
ように思います。
ただ、それは東宝のバックアップや
黒澤組の優秀なスタッフや俳優たちの頑張りや努力という
バックボーンがあったからこその成功であり賞賛であった
部分も大きかったはずです。
黒澤組のスタッフの優秀さについては
晩年の監督がよく話題にしていたことですが、
当時の監督にはその自覚はなかったようです。
己の才能を過信するあまり、アメリカで撮ろうが
東映で撮ろうが、主要な役を素人たちが演じようが、
俺が演出すれば絶対傑作になるはずだ、という
おごりが生まれてしまったように思います。
そんな慢心が、日本映画界やハリウッドを取り巻く
製作環境の変化や観客の嗜好の変化を読む目を曇らせ、
ある意味、裸の王様になって自分で自分の首を絞める
結果を招いてしまったのではないでしょうか。
あの頃の監督の言動は、どう好意的に解釈してもw
常軌を逸していたと思います。
判断がすべて裏目、裏目に出てしまったのも
無理もないと思えるほどです。

まあ、天才と云えども黒澤さんも人間ですから
仕方のないことではあるのですが・・・。

どうも黒澤さんのことになると長文になってしまいます。(苦笑)
すみません。


[ 2010/03/03 06:57 ] [ 編集 ]
私自身は後追いで大ファンになったんですが、映画鑑賞の先輩に黒澤明、溝口健二、小津安二郎の3巨匠を別格扱いでリスペクトされていて、その先輩に感化しましたよ。今年は生誕100周年ですが、イベントとかあるんでしょうか?私自身も黒澤明監督の雑誌や高価な豪華本や画コンテ集、岩波のシナリオ全集などを持ってます。
[ 2010/03/03 17:55 ] [ 編集 ]
いろいろあるようですが、イベントとしては
東京と大阪で開催される「黒澤明 -生誕100周年記念
 特別上映-」が一番の話題じゃないですか?

http://www2.toho-movie.jp/movie/kurosawa/

トークイベントもあって楽しそうですが、
チケットは争奪戦になるでしょうね。

それから「日本映画専門チャンネル」では
5月に「監督 黒澤明の仕事」という特集をやります。
同局がハイビジョン化された時に行った特集以来、
二度目の黒澤特集になりますね。
もちろん、全作品ともハイビジョンでの放送になります。
[ 2010/03/04 07:12 ] [ 編集 ]
黒澤明監督がもう少し遅く生まれてたらって、いつも思います。僕自身はリアルタイムで黒澤明作品を観始めたのは、高校1年生のときの『影武者』からです。黒澤明監督が大正~昭和一桁生まれだったら、もっと観られたかなと思ってます。管理人さんはどうお考えでしょうか?
[ 2010/03/05 10:00 ] [ 編集 ]
黒澤監督の評価と特異性は時代と密接に関わっています。

占領下に製作された「羅生門」が、
サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が締結された
直後に、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、
黒澤明は戦後日本で、はじめて世界に認められた日本人
となりました。
黒澤さんはいち映画監督というだけに止まらず、
日本の再生を象徴する国民的英雄となったのです。

この事件と同作のアカデミー名誉賞の受賞、
そしてなによりGHQによる規制や干渉が無くなり、
自由な作品作りが可能になったことで
日本映画を取り巻く環境は一変し、
黒澤に続けと、各映画会社が自社の巨匠を使って
大作を制作するようになります。
50年代に続々と世界屈指の傑作が誕生する背景となる、
日本映画黄金期の始まりです。

東宝出身の監督が東宝争議のため大映で作った
「羅生門」の興行成績はあまり芳しくありませんでしたし、
その次に封切られた『白痴』(1951年)に至っては
松竹側に勝手に編集されて短縮版になったこともあり、
大コケといっていい成績しかあげられませんでした。
にも関わらず、「羅生門」が世界的に評価されたことで、
東宝は黒澤監督にこれ以上ないほどの条件で、
作品製作における自由裁量と資金提供を保証して
争議での騒動が一段落した古巣に呼び戻しました。
そうして生まれたのが「生きる」であり、
前代未聞の超大作「七人の侍」であるわけです。

もし仮に「羅生門」がグランプリを受賞していなかったら
どれもが年単位の時間と通常の数倍の資金をかけて作られた
65年の「赤ひげ」までの東宝作品は生まれていません。
他の巨匠たちによる傑作の多くも、少なくとも
今のかたちのままでは誕生していなかったでしょう。

70年代からの東宝は、
リスクの大きい映画製作を直接行わずに
独立製作プロの作品や洋画の配給、貸スタジオ業などによって
確実に利益を確保する経営にシフトして行きます。
業界最大手の東宝ですらこれだったのですから
監督が戦後生まれだったとしたら、映画監督になるのすら
困難だったでしょう。
おそらく漫画家にでもなっていたのではないでしょうか。


あ、それと、僕も監督の作品をリアルタイムで観たのは
『デルス・ウザーラ』からですよw。
それとキリがありませんのでw、
これでアキラ1229さんへのレスは最後にさせて下さい。
申し訳ありませんが、よろしく。



[ 2010/03/05 23:51 ] [ 編集 ]
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